ふたりのシベリア

香月泰男と瀬島龍三。ひとりは陸軍伍長にして画家、いま一人は陸軍中佐にして関東軍参謀。シベリアに抑留された二人の対照的な人生に思いをめぐらした。敗戦後、関東軍を中心にシベリアに抑留された日本人捕虜は60万人。零下40~50度にもなる酷寒の中で、劣悪な食糧事情、森林伐採などの重労働で約7万人が死亡した。そのあらかたは栄養失調死。それでも、この二人は生き抜いた。絵の具箱を放さなかった香月、逆らわず調整型の政治力で生き抜いた瀬島。  
 10月3日、石川県立美術館での香月泰男展。二度目である。でも立花隆の講演会がセットされている。2月に東京ステーションギャラリーで見た時は、会場が手狭で、あのシベリア・シリーズが揃っていなかった。没後30年記念展は東京が皮切りで、山口、札幌、茨城と巡回してきたのだが、立花の「シベリア鎮魂歌」(文春刊 2667円)は原稿が遅れて、ようやく石川展に間に合い、講演会ということになったのが顛末である。
 香月と立花の出会いは面白い。立花は昭和39年に東大仏文科を卒業して、文春に入社し、週刊文春を手伝っていたが、2年半で辞めている。東大哲学科に学士で再入学をするわけだが、大学紛争で授業がない。そして、カネもなかった。文春から引き受けたアルバイトが、香月の最初の本となる「私のシベリア」。聞き書き、いわゆるゴーストライターだった。香月の住む山口県三隅町へ。10日間通い詰め、一升瓶のワインを前にして、香月は語り、立花は過酷な体験と作品の背景を必死に聞き込んだ。講演会は定員を超え、会場に入りきれず、ビデオを見ながら聞く羽目になった。立花の饒舌は止まることはない。2時間があっという間に過ぎ、主催者の指摘で降壇した。というのも、あの聞き書き以来30余年、「シベリア・シリーズ」57点の絵を徹底して読み込んできた。没後20年には、香月のシベリアでのすべての足跡をたどる「NHKスペシャル立花隆のシベリア鎮魂歌」を作っている。類まれな旺盛な好奇心で、周囲が辟易するも委細かまわず進んでいくのが立花流。さすがのNHKも制作費に悩んだと思う。しかしこんな男もいないといい番組は出来ないのだ。香月の執念で塗り込められたシベリア・シリーズは、戦争とは何かを告発する。
 立花の講演を聴きながら、なぜか急に瀬島龍三が思い出された。虚像を作り上げたのが山崎豊子。昭和48年からサンデー毎日に連載した「不毛地帯」。単行本でも大ベストセラーとなった。主人公壱岐正は、天皇を守り、上司を罪に落とすことなく、そして自分は大きな負い目を感じつつ、シベリアで重労働に服し、復員してから伊藤忠商事に職を得て困難なビジネスを成功させる賛美すべき男となっている。壱岐イコール瀬島の効果は絶大であった。その後、中曽根を後ろ盾に、第二臨調を切り回したのも、その効果を最大限に利用したといわれても仕方がない。
 これに対して歴史の真実を語らない瀬島のあいまいさを突いたのが保坂正康の「瀬島龍三 参謀の昭和史」。疑念のひとつが、瀬島が極東裁判でソ連側の検事側証人となっていること。ソ連側に有利な証言をしているのだ。そして今ひとつ。日本とソ連の停戦協定交渉に、秦関東軍総参謀長と瀬島の二人があたっている。そこで戦時賠償として「一部の労力を提供すること」に同意する秘密協定があったのではないかという疑惑である。つまり60万人が合意の下に差し出されたのではないか、ということ。秦が亡くなり、瀬島しかいないのに答えていない。ソ連側の厳しい過酷な拷問にも屈しなかったのは関東軍作戦班長の草地貞吾ただ一人。鉛筆を手に突き立てられ、身体がようやくはいる細長い箱の中に2週間、直立したままの姿勢で閉じ込められ、大小便たれ流しで、立ったまま眠った。それでも屈することはなかった。関東軍総司令官の山田乙三以下、関東軍の将校は知っているどころか、知らないことまですべてソ連当局に話している。日本的エリートの無責任さである。著者の保坂は瀬島に自省を求めているに過ぎない。拷問に屈したから、文句をいっているわけではない。多くの犠牲をもたらした戦争の指揮を取った男が何もなかったかのように、再び晴れの舞台に立つ節操を問い質している。
 シベリアは遠くなりにけりか。

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