ダイエーの歴史は戦後の日本経済史そのもの。昭和20年生まれのわが人生も、その流通変遷の軌跡とひととき交わって歩いてきた。引き揚げの身であってみれば、手っ取り早く食いつなげるのは闇物資の商い。親父がその闇から抜け出して、引揚者住宅から小さな家を手に入れ、衣料品店を開いたのがわが小学校入学の時。その頃が高岡の繊維卸の絶頂期。今の万葉線で、高岡に何度行かされたことだろう。手にメモを持ち、次々と卸店をまわり、大きな風呂敷き包みを背負い込んで帰る。小学生だから運賃は半額。格好の労働力であった。両親は商いに懸命で、こちらの思いに気を使うゆとりはない。それから5年。新湊の商業地に30坪の店を借りて打って出たのである。開店日は近郷からも人が押し寄せ、ごった返しの大盛況。その日の売り上げ30数万円を、両親がわが意を得たりと数えているのを覚えている。商人才覚の抜きんでた中内功が主婦の店を大阪でスタートさせたのと同じ年だ。その後が雲泥の差だが、自分の名誉と財産を失うことを恐れる中内と、それほど固執するものを持たないわが父と、人生の終局においてどちらが幸せなのかとも思う。野心と才覚が過ぎたるばかりに招来した事態である。中内はやはり全私財の提供を申し出て、中国での流通コンサルタントに余生を捧げるというのが一番。1512 それはさておき。商売の面白さである、一面では怖さでもあるのだが。戦後の物不足もあろうが、仕入れたものが飛ぶように売れたのである。この醍醐味は凄い。モノが売れるという時に、体の内側から何ともいえない喜びが沸き上がってくる。こんな体験をもっているかどうかの違いは大きい。これは教師や公務員の家庭では身につくものではない。人材を見抜くのにこのDNAも考慮すべきであろう。わが唯一の自慢話。昭和46年頃100円化粧品がブームの兆しを見せていた。これを80万円近く売り、収益10万円を得た。3日間で1万人を動員する県民会館のイベントに目を付け、一小間を購入。二人のアルバイト学生に売らせたのである。あまりの売れ行きに化粧品卸の奥さんまで手伝いに駆けつけてくれた。セブンイレブンの鈴木氏も、ユニクロの柳井氏も、セコムの飯田氏も、シダックスの志太氏もみんなこのDNAを持っているように見える。しかし戦後のダイナミズムのなかで陽の目を見たDNAも、今まさに廃れようとしている。それだからこその思いがダイエーにかかる。1512 築城3年落城3日。落ちていくのはとにかく早い。世間の眼も厳しく、まして仕入れもままならず品揃えも不十分、その上に十字架を背負って売り場に立たれても、買い手が鬱陶しくなるだけだ。人間追い詰められてなかなか仕事ができるものではない。ふとダイエーの再建プラン策定の経過を見て思った。商売はダイナミックに動き、人知を超える時もある。上昇気運の時はいい。敗戦のしんがりを勤めながら目標数字の枠がはめられているのである。至難なことである。しかし、こうした状況でこそリーダーの真価が問われるというもの。人材やいずこ、にであるが、意外に「野に遺賢あり」で身近かにということもある。そうかといって急ぐ余り真贋を見誤ってもいけない。正論を叫ぶけどもどうしても好きになれない、人が寄り付かない輩よりは、憎めない悪人の方がいい。またゲーム感覚で現実を操る輩。マイカルの時がそうだった。倒産してもまるで無責任にシレっとしている。これは駄目。人材の見分けは難しいが、細部を見ることであろう。エセモノは細部にまで神経を通わすことは出来ない。受付の女の子や、パートのおばさんが意外と見る眼がある。権力の中枢にいては見えないことが多い。1512 ダイエーの前途はこれからが厳しい局面。ご破算にしてゼロからやり直した方がどれほどいいか。でもここはやはりダイエーには再生してよみがえってほしい。中内やダイエーが好きなわけではない。流通の面白さ、醍醐味を多少知るものとして、大ドンデン返しを見たいからである。地域にあってもそうだ。生きる、暮らす、働くが一体になっていて、しかも息苦しくない風通しの良さ。小泉の構造改革を超える流通革命を地域で。地域流通もダイエーと同じ。そんな思いで、何が何でもやってほしい、何が何でもやらなければならないと思うのだが。1512 ところで愚息のセンター試験はどうであったろうか。10日余りのにわか勉強ではしれているのだが。これでは革命はできないか。