隣国のことだが、いつも戸惑いを覚える。国名はさほどでもないが、人をさす場合だ。韓国人か、朝鮮人か。前者は南だけかとなり、後者にはやはり、双方に拭いきれない差別感情が残る。さりとて、コリアンというのも空々しい。
こんなことから始めるのは、浅川巧を紹介したいからだ。植民地時代の彼の地で、これほど朝鮮人を愛し、朝鮮人から愛された人はいない。23歳で渡ってから41歳で亡くなるまで、朝鮮服を愛用し、ロバの背にゆられていた。「あの朝鮮人はずいぶん日本語がうまいね」と日本人からも見間違えられ、「ヨボ!どけ!」と日本人から怒鳴られ、黙って静かにどいたともいう。民藝に関心がある人なら柳宗悦関連で「浅川伯教(のりたか)・巧兄弟」の弟のほうだといえばわかってもらえるかもしれない。柳をして「彼がいなかったら、朝鮮に対する私の仕事は其半をも達成し得なかったろう」といわしめた。名評伝として「朝鮮の土になった日本人―浅川巧の生涯―」(高崎宗司著 草風館)がある。
明治24年に山梨県高根町に生まれた。同県の龍王農林学校に入学、在学中にクリスチャンとなっている。卒業後、秋田県大館営林署に就職。兄は朝鮮陶磁に興味を持ち、この時既に朝鮮に渡っていた。大正3年、兄の後を追って、朝鮮総督府農商工部山林課に職を得、林業試験場の職員となる。すぐにハングルを習いはじめている。以後朝鮮の緑化に従事、主に育苗、種樹をやり、半島をくまなく歩いた。その中で、兄の影響もあるが、民衆が使っている日常雑器の美しさに心奪われるようになっていく。著書に「朝鮮の膳」「朝鮮陶磁名考」があり、陶磁器、窯跡の調査、膳、箪笥類などに科学的で明晰な考察を加えている。しかし、底流にはこの民族に対する畏敬と深い愛情が流れている。また朝鮮民族博物館を作り、収集したものをそこに収蔵し、結果的に散逸を防ぐ結果ともなっている。
昭和6年、巧が急性肺炎で卒然と逝った時、葬式代にも事欠く有様だった。学歴も高くはなく、月給もさほどではなかったのに、困窮している人々を助け、多くの子供たちに学費を援助していたのだ。彼の死を聞いた近在の朝鮮の人々は群をなして、別れを告げに集まった。棺を担ぎたいと殺到し、応じきれない程であった。生前の遺言により、朝鮮式に行われ、共同墓地に葬られた。今も韓国の人たちにより、きちんと整えられ、「浅川公日韓合同追慕祭」が行われている。
「何が自分にできるのか」を絶えず問い、又わきまえていた。声高に叫ぶことなく、激烈な弾劾文を書くわけではなかった。言葉少なに、自分のできる範囲内でまわりに尽くし、黙って死んでいく。そういう浅川の人間的な魅力を彼の国の人々は見逃さなかったのだ。朝鮮の人々には、そんな怖いような眼力もあることを忘れてはならない。
さて、唐突に浅川巧を持ち出したのにはわけがある。実は中年バックパッカー、NZ行きに際し、バッグの中に文庫本1冊と決めていた。悩みに悩み、「ハングルへの旅」(茨木のり子著 朝日文庫)とした。蒙をひらかれるとはこのこと。浅川巧を教えられたのである。
いまひとつ。バックパッカー同士で本の交換をすると、沢木耕太郎が「地図を燃やす」で書いている。シルクロードを旅しているとき若者に出会い、山本周五郎の時代小説「さぶ」を彼はもらう。何気なく第1行を読んだとたんに、涙が止まらなくなった。その「さぶ」はその感動の言葉を添えて、次から次へとバトンのように受け渡され続けているというのだ。そう思うと、胸が震える、とも。
さて、わが文庫本。ネルソンの宿で韓国の女性に、一日も早い民族統一を祈って、といって渡したのだ。今ごろ、ニュージーランドのどこかに、誰かの手にあるはず。そう思うと、とても豊かな気分になる。
老人バックパッカー、やはり無理をしたのか、風邪である。咳が10日間以上続いている。風邪とは無縁なのだと豪語していたが、この体たらく、情けない。「続く咳つまらぬ過信打ち砕く」「悔しくて水洟強くかみにけり」(拙句)。
朝鮮の土となった日本人
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