共謀罪は異例の中で成立した。歯がゆい思いに何ともいたたまれないが、官邸密室での連日の論議はどうであったかを想像すると少しは落ち着いた。「ここで怯んだら、すべてが水の泡だ」「怯む素振りもみせてはならない」と強気を競い合い、法務委員会中間報告で済ませるという奇策に全員で快哉し、とにかくまっしぐらに加計疑惑から抜け出して、目先を変えて前に進もう。野党を蹴散らし、傲然と立っているシンゾウこそ望まれている。最終ゴールは憲法改正であることを忘れてはならない。という程度のことだろうか。
今週落ち着かない気持ちで、手にしたのは「舞台をまわす、舞台がまわる」(中央公論新社)。書名からして、何とも尊大にみえる。本は分厚く、定価も3,000円。副題「山崎正和オーラルヒストリー」で舞台裏も見てみたいだろう、と挑発しているように聞こえる。浅学の理解だが、オーラルヒストリーというのは、簡単にいえば聞き書きで、文字が書けないとか、表現手段が乏しい底辺で生きる庶民が辛うじて歴史に記録を残す手法かと思っていた。ところが御厨貴(みくりや・たかし)はこんな解釈をしている。オーラルヒストリーとは、インタビューの対象は公的な立場にある人(公人)でなければいけない、インタビューを行うのは専門家でなくてはいけない、インタビューされたものが情報として公開されなければいけない、と非常に狭く厳しく限定している。選ばれた人間のものだということらしい。天皇退位の有識者会議の座長代理をやるなど、権力の周辺をうろちょろして、ちょっと胡散臭い男である。その御厨を含め、刈部直・東大法学部教授などこれもエリート4人が、劇作家であり評論家でもある山崎正和への聞き書きを12回繰り返した。知の巨人とも呼ばれ、しかも佐藤内閣の内閣官房とつながり、その後もいくつもの自民政権で政治と文化人との橋渡し役を務める役割を果たしてきた。そんな舞台が赤裸々に語られる。御厨たちがかくありたいというオマージュが卑屈そうに感じられるが、世の中がこうして動いていくのかがよくわかる。
山崎正和は昭和9年生まれの84歳。父親が満州医科大学の教授となったことで奉天に移住し、10歳でソ連軍の進駐を目の当たりにする。母の実家のある京都に引揚げてきたのは昭和28年、父は結核で彼の地で亡くしている。鴨沂(おうき)高校で共産党細胞となり、京都大学文学部に進学し、直後に離脱している。大学ではほぼ独学で、哲学含め興味の赴くままに渉猟した。美学科で大学院に進み、フルブライトでアメリカ留学を終え、ひょんなきっかけから中央公論の粕谷一希が束ねるサロンのメンバーになる。大学紛争もからまり、中公のスタンスは代々木系、反代々木系左翼、良識派に分類すれば、良識派に属する。そんな中で佐藤首相の楠田秘書官から連絡が入り、首相を入れて懇談する中で、東大入試を中止するという案が飛び出した。ここが劇作家の発想で、攻防戦の安田講堂を首相が視察し、何とも痛恨の極みという表情で、東大入試はやめると発言するというシナリオ。一発で山が動いた。
とにかくサロンの形成と自由な社交が好きである。そこから舞台をまわしていく、まわっていく。そんなダイナミズムの面白さを知り尽くしているのであろう。サントリー文化財団がその典型で、基金は30億、事務の人数は最小限で権限は大きく、関西風の合理主義が徹底している。「社交する人間」でいう。それは人間のあらゆる欲望を楽天的に充足しつつ、しかしその充足の方法の中に仕掛けを設け、それによって満足を暴走から守ろうという試みである。こちら側も居酒屋であろうと、コンビニのイートインであろうと多彩な社交を繰り広げていこう。共謀法に抗うには、この社交感覚である。ゆっくりと捲土重来を期そうではないか。
権力の周辺で動きがうまいといえば、浅利慶太。演出家と劇作家という関係で丁々発止はあったが、山崎も一目置くのは小隊長の精神。絶対に真似ができないが、少数の絶対服従する家来みたいなものを従えさせる能力で、日生劇場、劇団四季などの経営を成功させた。共謀法はこんな小隊長との戦いでもある。
舞台をまわす舞台がまわる
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