バロン・サツマ

頃は大正末期から昭和の初期にかけてのパリ。第一次世界大戦で漁夫の利を得た日本は、未曾有の好景気に沸き、円高はパリ在住の日本人を“にわか成金”に仕立て上げ、わが者顔でパリ中を闊歩させていた。北陸ゆかりからいえば、加賀百万石本家の前田利為侯爵夫妻である。駐在武官という身分だが、私費留学だから上官の指揮下にあるという意識はなく、大名貴族として自腹で日本外交に貢献するのだと勝手気ままに外遊を謳歌している。使用人を引き連れて最上級ホテルのワンフロアを借り切り、夫人は毎日のようにドレスを誂え、宝石を買い求めて出歩く日々。東久邇、北白川、朝香宮家など皇族の子弟たちも、“隔離と束縛”から逃れるために遊学していて、競い合うように遊蕩している。国立西洋美術館の松方コレクションはこの頃だ。松方幸次郎が300億円(以後すべて現在価格)を豪快、闇雲に投じて集めたものである。
 さて、バロン・サツマこと薩摩治郎八だが、この頃のパリを期せずして日仏友好に結び付けた男である。瀬戸内晴美の「ゆきてかえらぬ」、獅子文六の「但馬太郎治伝」と小説のモデルになっているが、思い出したように「バロン・サツマと呼ばれた男」(藤原書店刊)が出版された。著者・村上紀史郎が治郎八の軌跡を丁寧にたどっている。
 イギリス留学から、パリに転じ、30年間で600億円を使い果たした。毎月の仕送りが3,000万円だったという。語学に不自由しなかったのか、という疑問だが、英国人の乳母が付き、司教の娘さんが家庭教師という幼児期を過ごしている。どうして、それほどのカネが使えたのか。横浜開港150周年だが、開港と時同じくして、祖父薩摩治兵衛は20年余りの丁稚奉公を経て、金巾(かねきん)と呼ばれる綿織物を商う店を開いた。目先が利いたこともあるが、やはり時代であろう。戊辰、西南、日清、日露と続いた戦役がいくつもの財閥を生んできた。薩摩商店だが、30年後の明治20年には、浅野総一郎と肩を並べる豪商となった。薩摩と名乗るが、近江の貧農の出に過ぎない。治郎八はいわば3代目、2代目であれば、こんな遊蕩を許されなかっただろう。
 絶頂期は昭和4年。この年に完成したのがパリ大学都市日本館で、留学生などの宿泊施設でもあるが、薩摩家が関東大震災で予算がままならない国に代わって建設費を寄付した。竣工式には仏大統領も出席、大使と並んで治郎八がホスト役を務め、夜には1億円を投じた大晩餐会を開いた。この3年前に結婚しているが、妻・千代は松平容保の孫娘にあたる。余談だが、容保は悲劇の会津戦争後を生き延び、東照宮の宮司などを務めている。当然鶴ヶ城で自決と思いきや、違っていた。貴人と称される人間の責任感には大きな疑問を持たざるを得ない。
 薩摩商店が傾きだし、閉業したのは昭和10年。恐らく、治郎八は金巾綿織物を一度も手にすることなく、また商売で一度も頭を下げることもなかった。それでいて、戦中戦後も耐乏生活とは程遠い、ハイレベルな生活を維持できたのは、手元にあった純金にダイヤを散りばめた秘蔵の煙草入れなど、売るものには事欠かなかったからだ。
 10年前になるが、横浜・そごう美術館で「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」展が開かれた。薩摩の援助を受けてパリで活動した作家たちの作品展である。藤田嗣治、岡鹿之助、藤井二郎はじめ56人に及ぶ。企画構成を担当したのが徳島近代美術館。徳島との縁はこんな展開だ。千代夫人が亡くなったのは昭和24年。その翌年に帰国した治郎八は、荷風が愛した浅草に住み、浅草6区のロック座に出入りをし、踊り子であった30歳年下の利子と出会い、再婚する。利子夫人の実家が徳島で、阿波踊りを見物中に脳卒中で倒れ、療養をしながらそのまま徳島に留まり、51年74歳で没した。紳士ぶりを最後まで貫き通したといえよう。
 もし治郎八が600億円を使わなかったら、薩摩商店は持ち直しただろうか。答えはノーである。勤倹貯蓄で遠く及ばない歴史のうねりには、抗すべき手段はない。治郎八の遊蕩がなければ、薩摩商店の名を思い起こす人はいないだろう。遊蕩のパトロン精神が多くの芸術家の才能をひらかせたともいっていい。
 しかし、1日100万円の生活を30年とはいわないが、1年ぐらい、いや1カ月でもいいからやってみたいものである。

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