つとめて人に会うようにしているが、ほとんどの人が何となく落ち込んでいる。老人も然り。ままならいことが多過ぎる。こんな「まさか」も加わってきた。
6月28日午後、行きつけのブックスなかだ本店で、後輩が声を掛けてくれた。数年ぶりで、お茶でも飲もうといったが、思いがけないことを口にした。実は、女房が若年性アルツハイマーになって、待ったなしの日常生活を送っているという。脳細胞が壊れての見当識障害も激しく、自分がどこにいるか、誰に話しているのか、時間はどうなのか判断ができず、その対応に疲れ果てている様子。ディサービスを利用しているが、早晩施設に入れることも想定しなくてはならない。もっと進行して、あんた誰?といい出すのではと恐れている。
若年性とは65歳未満を指し、彼の奥さんはそのぎりぎりの65歳である。もっと早く発症していたら、彼の仕事に差し障っていたかもしれない。
こんな事例を耳にするのは4件目である。すぐに思い出すのは近所の奥さんだが、夏場にオーバーコートを着て、ゴミ出し場に無表情で現れた。「おはようございます」の言葉をつい飲み込んでいた。後日連れ合いの方から、施設でも手に負えない状態で、何度も退去を迫られていると聞かされた。
10万人当たり、50人といわれている。発見が遅れやすい、在職中であれば退職に追い込まれる、介護の負担が配偶者に集中する。その原因ははっきりしない。すぐの遺伝などと安易で、差別的な想像を働かせてほしくない。われらが遺伝子は20万年前にアフリカ大陸に登場したホモサピエンスから蓄積したもの。その選別選好をしていこうなんて、寿命100年の存在でできるわけがない。
この「まさか」を避けるのではなく、引き受けていく覚悟がなければ生きていく資格がない。そこまでいい切りたい。わがホモサピエンスは10万年頃から「自ら見つめる内省能力」を身につけ始め、約6万年前からユーラシア大陸移動を通じて「自然との対峙・格闘・共生」によって自然の中で人知を超えた「聖なる霊性」を感じ、神々の意思を認知し始めた。そして約1万年前とされる「定住革命」によって、決まったコミュニティに住み、農業や交易に従事すると、その仕組みを動かすヒエラルキーや支配・被支配の関係が常態化して、王政、専制、貴族政治、寡頭政治の原型が生まれた。そんな歴史の中で、無数の「まさか」に襲われ、それを受けいれて、命をつないできたのである。
後輩よ、人類のひとりという認識をもって、奥さんの若年性アルツハイマーを受け容れよ。彼女は君の寛容を、何よりも察する能力を持っている。君が嫌だなとか、怒りの感情をあらわにすると、彼女はすぐに脳細胞を萎縮させてしまい、混乱が激しくなり、病気は進行するだろう。アウシュビッツに入ったフランクルを思え、そんな人生も生きてみよ。それこそ神が与えた試練と思って切り替えるのだ。彼女が眠っている時間は、君に与えられた安息の時間だ。ビールを飲むもよし、本を開いてもいい。徹底して付き合え、そんな晩年も捨てたものではない。
しかし、ウクライナ侵攻の「まさか」は、ホモサピエンスの成長と逆行する愚かな所業であり、反撃能力だ、防衛費倍増とヒステリックに対応するのも、また同罪である。
参照/「人間と宗教あるいは日本人の心の基軸」寺島実郎著