「愛と性と存在のはなし」

 生まれた性にくつろげる人は、本当にいるのだろうか?そんな疑念を抱いて、女性作家は、性の深淵に迫っていく。身体の性と心の性が違う性同一性障害について、作者自身が自分をさらけ出す。かなりの迫力である。予期しなかった読後感に老人はとまどっている。わが好奇心は軽薄に愛と性と聞いて動いただけだが、存在という哲学的な命題を突き付けられてたじろいでいる。もう「男と女の間には暗くて深い川がある」などと気軽に歌うことはできない。男と女の境界ははっきりと分かれてはいない。性を分ける染色体XXとXYは程度の差であり、グラデーションなのだ。すべての人間は性同一性障害といっていい。

 手にしたきっかけは、著者の赤坂真理が書く愛と性とはどんなものか、という興味。12年に上梓した「東京プリズン」(河出書房新社)では、自らの米ハイスクール留学経験をベースに、日米関係をセクシャリテイという独特の視点で描き切った。米軍占領統治にまるで抵抗しない日本を、国家にもセクシャリテイを見いだし、植民地と被植民地の関係性を男女のそれになぞらえた。米軍の物量に圧倒された日本は、男にかしずく女をいまだに演じ続けているという具合だ。ところが「愛と性と存在のはなし」(NHK出版新書)は自らをさらけ出して、誰もが隠し持っている性の本質をあからさまにしている。

 母が亡くなった時、私はごめんなさいといい続け、涙を流し続けた。「あなたを守る息子として生まれてくるはずだった。他の兄弟よりうまくできたのに。息子としてあなたに愛されたかった」。亡くなる母に告白したのだ。彼女には二人の兄がいる。ひとり16歳でアメリカに放り出されたことについてのわだかまりと、母はGHQ関連で通訳をやり、それなりのアメリカ通であり、娘への愛という当たり前論との葛藤。自分の持つ性の複雑さを母娘で共有できない何かを、母の死まで持ち続けた。

 そして、こんな風にいう。LGBTとかのセクシャルマイノリティよりも、普通であるとするヘテロセクシアル(異性愛者)にこそ大きな問題がある。ちがう身体を持った人への想像力を、私たちはほとんど持てない。まして異性の身体の内実は想像することさえ難しい。どちらも互いの自然について理解しようとせずに、人格の問題にすり替えるだけだ。不毛ともいえるもどかしさでもある。

 そのもどかしさが駆り立てる。トランスジェンダーでホルモン治療するカメラマンMは、男ながら女友達として付き合う。「女みたいにされたい」とささやくMに反応する自分に驚く。でも、わたしが人間を見ていて思うのは、本当はその人が隠しているようなところが、いちばん美しく、豊かだということ。どうかそこをこそ生きてほしい、生きる価値がある、と願わずにいられない。赤坂真理は挑んでいる。

 たじろぐ老人は、かすかに残る老人の性にも、くつろげる機会があっていい、とつくづく思う。詩人・田村隆一の「おじいちゃんにもセックスを」が素直に納得できる。おばあちゃんだって、諦めずにくつろぎを求めればいい。お互いに、秘すれば華を隠し持って残り少ない命を燃やしていこう。

 しかし、ぐったり疲れる1冊である。

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