わが8月に乾杯

「騙されたと思ってこの映画を見ろ。岩波ホールは神保町の交差点角のビルの9階にある。みずほ銀行が1階だから、すぐわかるはずだ。夕方6時半からの上映が空いているという。1800円を惜しむな。」こんな葉書を大学生の愚息に送ったのだが、果たして見ているだろうか。
 盛夏の広島。昭和20年8月6日午前8時15分。突如頭上に炸裂した一発の閃光が人々の運命を襲った。図書館に勤める美津江は、愛する者たちを一瞬の閃光で失い、自分が生き残ったことへの負い目に苦しみながら、息を殺すようにひっそりと暮している。その彼女の前に、ある日ひとりの青年が現れた。原爆の資料集めに情熱を注ぐ木下青年に好意を示され、美津江も一目で彼に魅かれていく。「うちはしあわせになってはいけんのじゃ。」自分は人を好きになったりしてはいけない。幸せなど望んでいない…。美津江はそんな自分の恋心を押さえつける。美津江が恋に目覚めたとき、父の竹造(亡霊)が現れる。幸せの一歩手前で躊躇する美津江に、父の竹造は自ら「美津江の恋の応援団長」を名乗る。なだめ、すかし、励まし、ありとあらゆる方法で何とか娘・美津江の心を開かせようとする。
 これが映画「父と暮せば」のストーリー。美津江が宮沢りえ、父親が原田芳雄、青年が浅野忠信。原作が井上ひさし。こまつ座でなんども演じられてきた劇を黒木和雄監督が映画化し、成功している。
 8月にひも解く一冊が「デルタの記」。暮しの手帳社が戦後50年を記念に「戦争中の暮しの記録」と合わせて出版した。その中にある満蒙開拓団の悲劇「なぜ、どうして 二龍山開拓団の終末」。深田信さんの手記である。大日本帝国関東軍は8月16日、満蒙開拓民12万人を置き去りにして南下していった。見捨てたのである。軍隊は国民を守らない。残された開拓民の女子と子どもは、家を焼かれ、略奪され、暴行され、武器もなく、衣類もなく、食料もなく、傷つき疲れながら、ただ祖国に帰りたい一念で、南へ南へ歩きつづけた。悲惨を極めた二龍山開拓団は総勢303名で、死者157名。その7割が子供であった。共倒れになるのを恐れて、親が自らの子供の首を絞めたことも。「なんと言うて拝み申さん十一の幼なほとけは 飢餓仏ぞも」{深田さんの短歌}。何とか佐世保に上陸してからも苦難が続くが、一番悔しく思ったのが、内地の人間の冷たさ。「針ほどのことを、棒ほどに言うな」と引揚者に白眼が向けられた。
 わが8月はどうか。新湊市新富町。庄川河口の西岸、掘っ立て小屋同然の引揚者住宅街があった。昭和21~22年頃のことである。一つ棟に4軒が入っており、2部屋にトイレが付いているだけ。街の真ん中に井戸があり、そこが共同炊事場だ。井戸水を受ける水槽の中に、西瓜、トマト、胡瓜が浮かんでいた。引き揚げの身で定職などあろうはずもなく、それぞれ魚を仕入れて担ぎ屋をしたり、河岸を畑にしたり、鶏を飼ったりと、やくざも、テキヤもいた。とにかく、誰もがその日食うだけで精一杯の生活だ。それでも親戚などに遠慮しながらの間借り生活から、ようやく抜け出せた解放感が漂っていた。そんな連中の集りだから、小さいながらも楽しい我が家であり、妙にさばさばした街の雰囲気があった。
 久しぶりに新湊を歩いてみると、すべてが変わっているのに、当時の風景がダブって見えてくる。馬齢を重ねて59年、それでもわが人生に乾杯だ。

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