16年3月雑感

わが想定外は4月12日に起こった。通いのプールの休館は火曜日で、ひそかにスーパーチューズディと称して、ほぼ呑み会に充てている。その日も呑み会に備えて、小1時間コースの裏山に登っていた。こんなところでも性格が出るというか、ちょっと負荷をかけて登ろうと、両手を上に挙げてその感触を楽しんでいたのだが、最後の下りに入ったところで、右膝に急に痛みが走った。足を引きずるように家に戻り、我流のマッサージをするも痛みはひかない。呑み会への欠席を伝え、早々に寝床に入った。朝起きると階段の下りがきつくて、補助手すりにつかまってようやくという始末である。近くの飯田接骨院に駆け込むと、右膝の半月板が炎症を起こして腫れ上がっているという。湿布をしてもらって、とにかく安静にしていろ、という診断。といっても最低のことはこなさなければならない。車の運転では、ブレーキとアクセルの踏み変えが膝に響き、時に悲鳴をあげそうになった。
 そういえば3月は多忙の日々であった。好んで多忙にしているのだが、それなりのストレスでもあったのだろう。それらを拾い出してみると、意外と時代が見えてくると思うので書き出してみる。
 22歳になる若い友人がアルバイトを辞めて縁戚筋の企業に就職したのだが、機械とにらめっこの仕事はとても苦痛であり、業績が急に悪化して夜勤作業がなくなり、周囲の人たちがこれでは生活がやっていけないとぼやき始めて職場が暗い。果たしてどうしたものか、という相談である。下請けの60人規模の製造業で、中国市場の悪化をもろに受けている。社会の仕組みを焦らずによく見て、自分で判断して結論を出していくしかないのだ、人生は1回しかないということも頭の隅のおいて、その辛い人生を楽しむゆとりが持てるように、と伝えたが理解しただろうか。
 もうひとつ。35」年くらい前に一緒に仕事をした仲間だが、当初の広告代理店から転職して印刷会社に20年務めていた。その彼が60歳の定年を迎え、さらに新しい仕事に踏み出すので、その激励会に招かれた。10人余りだが転職組でそれなりにうまく漕ぎ着けたもの、個人事業主となって土産物の物流に朝4時からハンドルを握っているもの、転職をせずにようやく部長ポストを得たもののすぐに定年を迎えるもの。それでもあの頃といって、話が盛り上がる。同じ時代に汗を流すことができてありがたい、と思った。
 さてもうひとつ。大阪、鹿児島とセンチメンタルジャーニーを2泊3日で強行した。大阪では新湊小同期の釣信義、矢野忠を呼び出して、初天神という場末の呑み屋で焼酎を傾けた。革命を夢見て、道を外したがそれでもこうして生きている、弱視というハンディを乗り越えて鍼灸という分野でまだ仕事ができている、伴侶を失ってもそれなりにこの齢までたどり着いた、とそれぞれの人生に乾杯することができた。鹿児島はこの1月3日に亡くなった山下克己宅を弔問する目的である。大阪からは電通勤務だった山根毅夫妻、宮崎からは成田弘視が駆け参じた。スキルス胃がんの発見が遅れて、あっという間に逝ってしまったのだが、奥さんを交えて、豚しゃぶを食べながら、十分に故人を偲ぶことができた。思い出を語ることによって、胸につかえていたものが消えていき、ついには涙声になるのだが、心が浄化されていくようだった。翌日、地元の山形屋デパートで時間をつぶしたが、いたるところに休憩する椅子が置いてあり、老人のテーマパークのような店で賑わっていた。食堂は昔ながらのもので、週日なのに列をなしている。富山大和の努力不足に腹立たしい思いがした。久しぶりの羽田空港だったが回転寿司があり、こうでなければならないとも思った。
さて実感だが、変わりつつ適応していくしかないのだ。

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